熟考


4
3月 12

チームワークとコンテクスト


金曜日は久しぶりに朝まで飲んで歌って大騒ぎ。後半の記憶が曖昧なんだけど、とても楽しかったのは覚えてる。迷惑かけてないことを祈りつつも、お陰で土曜日気がついたらもう外は真っ暗になってました。

いやまじで、素晴らしいスタンドプレーから生じるチームワークだった。そう、今日はチームワークのお話しについて考えてみたいと思う。

「部署」や「組織」のように固定されたものもあれば、プロジェクト単位で生じる「チーム」というのも仕事をしていく中でたくさん生まれていく。その中で、先輩・後輩や同僚など縦横の関係も生まれていく。

「チーム」というくらいなんだから、複数の人が絡む。それらの過程と結果を見てみると不思議な事に「作業分担」になることもあれば、「コラボレーション」になることもある。

人数が多ければ良いというわけでもないし、少なければ良いというわけでもない。同じジャンルに複数の人が関わることになれば「作業分担」だし、各ジャンル別に一人のプロフェッショナルであれば「コラボレーション」になるだろう。このジャンルを「大きく、くくればくくるほど高いレベルでのコラボレーション」が求められることになる。

例えば「コラボレーション」を目指してみる。この場合に必要なスタッフィングは「各ジャンル別に一人のプロフェッショナル」になる。以前、何度も某社の会長にプレゼンさせて頂いていた時にこれを痛感した。プレゼンは会長向け、スタッフは絞りに絞った結果デジタル領域は私一人。もちろん裏側ではたくさんの人のお世話になってようやく立っていられたのは言うまでもない。

これがもし、例えばデジタル領域だけで二人いたらうまくいっていなかったと思う。どれだけ相性が良くても違う人間、考え方やアウトプットも異なってくる。つまり、人数が増える分「コンテクスト」が2つにパックリ分かれてしまうからだ。

仕事はコンテクストに沿って進めるものかもしれない。人数が増えれば増えるほどコンテクストが枝分かれしてしまう。だから中継者(プロデューサー)の存在意義が高まっているということもあるだろうけれど、コンテクストに沿って考えると、各レイヤーで各ジャンル一人のプロフェッショナル、くらいがちょうど良い気がする。

チームでワークするというのは、「各階層」において、「各ジャンル一人のプロフェッショナル」を配置することでコンテクストを一気通貫し、「スタンドプレー」から「チームワーク」が生じてくるのではないだろうか。プロジェクトでは、そういう構造を持てるように踏むべきステップを決め、スタッフィングを意識していけるように頑張ろうと思う。より、大きく動かせるようになるために。


18
2月 12

時間感覚の演出


100年くらい前はヨーロッパに行く為に船に乗って何ヶ月もかかっていたらしい。船で外国に行くことも嵐など考えてみると決心が必要だったろうし、だからこそ貴重だったんだろうと思う。

今では飛行機で地球の裏側だって乗り継ぎを考えてみても1日あれば到着する。でも、あえて船で何ヶ月もかけて旅をする人もいる。時間があれば船旅もいいかもしれないし、飛行機でビューンと飛んで現地でエンジョイするということもあるだろう。

この「時間」に対する「感覚」というものは時代によって中身は変わる事はあれど、もしかするとどんな事にでも当てはまる、変わらない何かがありそうな気がする。

時間感覚(間隔)。例えばゲームで考えてみる。ロールプレイングゲームでレベルが一つ上がるまでの時間をどう演出するのかという話しで考えてみる。

1時間ゲームをプレイするとレベルが一つ上がるという設定をするのと、5分間ゲームをプレイするとレベルが一つ上がるという設定の「時間感覚」は、5分間の方がより早く「レベルアップという達成感」を得る事ができる。

ただし、そこには物語性を加える事が難しい。なんせ、5分間という短い時間の中で伝えられるものには限界があるからだ。一方で、1時間で一つレベルが上がる方の設定を考えてみると、5分間よりも多くの物語を伝える事が出来るし、より達成感を得る事が出来るだろう。

大きなストレス(一つレベル上がるのに1時間かかる)で大きな達成感を得るのか、小さなストレス(一つレベルが上がるのに5分間だけ)で小さな達成感を小刻みに得るのか。と言うことが出来るだろう。

これはゲームをプレイする人のライフステージによって感じ方が変わってきそうだ。学生だったら時間がたっぷりあって、没頭しながらクリアまでに50時間くらいかかるゲームもやれるかもしれないし、毎日遅くまで働いて家に帰ると妻と子供が待っているサラリーマンだったら休みの日を入れてもなかなか長時間ゲームをプレイする事も難しいかもしれない。

つまりは、「時間に対する感覚値」がライフスステージに応じて変化するのだ。

さて、これはゲームに限る話しだろうか?ということを考察してみたいと思う。

そうだな、、今書いているこのブログと、Twitter/Facebookを比較してみると「時間感覚の演出」はいったいどうなっているだろうか。たまに、だらだらと考えている事を書き連ねるのが私の悪いところかもしれないけれど、このブログを読む時間と、Twitter/Facebookの投稿を読む時間は違うだろう。(読み飛ばしていない事を前提として。笑)

加えて、ブログはだいたい一つ一つアクセスして読みに行かなければならないのに対して、Twitter/Facebookはそれにアクセスするだけで「みんなの投稿が向こうからやってくる」のだ。手間がかかるということは、時間もかかるということ。これも「時間感覚の演出」と言えるのではないだろうか。

いやいや、リアルの出来事を考えてみよう。最近、朝起きてダラダラと準備する癖が付いてしまった私は、いつも出社時刻ギリギリに会社に到着する。たまに「これ逃したら遅刻だ!」という事態に陥る事もあって、電車を乗換える時など走ったりもする。会社最寄り駅に到着して駅を出た後、この赤い線を超えたら遅刻!という線が後ろから迫ってきたとしたら、私は最後尾で焦りまくっている事だろうな、とかたまに考える。なんとも慌ただしい朝だ。

逆に、もしいつものようにバタバタと通勤して会社に到着すると「本日の勤務時間は1時間後ろ倒します」という貼り紙があったとしよう。突然、1時間の時間が出来たのだ。たぶん、喫茶店にでも行って、なんともまったりゆったりとした1時間を過ごす事だろう。

そもそもは私のものぐさな性格が問題なのだけれど、演出された時間感覚のお陰で毎朝がとてもエキサイティングだ。

味についてはどうだろう。いつだったか忘れてしまったのだけれど、日経MJに亀田製菓の記事が載っていた。お菓子もものすごくたくさんの味の新商品開発をしていて、一昔前と比べてみると最近は始めから「濃い味」が好まれる傾向にあるらしい。

日本っぽい、噛めば噛むほど味わいがふわっと出てきて食べた後の風味が美しいようなものよりも、口の中に入れた瞬間に口の中に味わいが広がる方が好まれると。食があふれている現代は「食べる」「味わう」という事について少し短い時間の中で考える必要があるということなのだろうか。すぐに味わえる、じわっと味わえる。これも時間感覚の演出になる気がする。

ここまでいろいろと考えてみてまだまだ考察する例はいくらでも出そうな気がするのだけれど、きりがないのでそろそろまとめてみる。

モノでも食でも情報でも、ものすごく溢れている時代。その背景に対して「時間感覚を演出する」という視点でサービスなりを考えてみると、全く違った視点が見えてくるかもしれない。


3
1月 12

無責任コラボレーション


宇宙は果てしなく広大なものらしい。どれくらいかというと、光の速さで100万年かかっても1周出来ないほどだ。もはや広大すぎて「宇宙」という言葉自体が抽象的に感じられる。もしかすると宇宙というのは「星」かもしれないし「地球」というのは宇宙という「星」に存在する「大陸」なのかもしれない。要は、大きすぎてよくわからないのだ。

そうか、モノでもコトでも、大きくなりすぎるとよくわからなくなってしまう事もあるだろう。

もう半年かもう少し前くらいに「ユッケを食べて食中毒になり男児が死亡する」という事件が起こった。もちろん、その事について今更何かを言いたいわけではない。結果として「私たちはユッケが食べられなくなった」という事実がなぜ生まれたのか、それを考えてみたいと思う。

最初、事件が起こった。警察もいろいろと調べた。それをテレビが連日報道した。人々は高い関心を持ってこの事件を見守った。法整備や規制が無い事に気づいた。行政は厳しい規制を設けた。そうしてユッケは食べられなくなった。この中でいくと、コトが大きくなったのは言うまでもなくテレビの影響で、またテレビが連日報道するという事は視聴率がそれを裏付けていたんだろう。つまりたくさんの人がよく見ていたんだ。

 テレビ局 : 視聴率が取れるのであらゆる角度から連日報道
 視聴者  : 連日暴かれる新情報に強い関心

こういう事象はしばしば起こる。テレビは「視聴率=視聴者の支持」があるから連日報道するし、視聴者は興味があり報道されているからただ「見た」だけなんだ。このコラボレーションによりコトはどんどん大きくなっていった。ひとしきり大きくなった頃、一つの出口が見つかる。「不十分な法整備」だ。大きくなり過ぎた風船が飛んで行く先が見つかったんだね。

この一連のコトに対して「アンカー」となってしまった行政は、この大きな風船をどうにかしなければならない。そう、厳しい法整備をすることだ。ちなみに私はユッケが大好きだったのだけれど、一つ楽しみが減ってちょっと寂しい。同じように感じる人が多いとするならば、この結果はいったい誰にとって嬉しい事だったんだろうか。

テレビは「報道」と「視聴率」という両方の目的が達成されるからどんどん取り上げて行ったんだろうし、それをよしとした視聴者もまた視聴率として返して行った。もちろん、誰が悪いなんてことはない。ただ、風船を膨らまし続けるに十分な程の「無責任なコラボレーション」により、巨大な風船は出来上がった。これを「世論」とでもいうのかな。

この大きな風船を受け取る「アンカー」は、並大抵の精神力じゃ受けきれないだろう。なんてったって、相手は無責任に言っているだけなのだから、言われるがままだ。これには冷静にコトを分析し的を得た意見を言う、「アンカー」を強く支え続ける「責任コラボレーション」が必要だろうと、そう思ったんだ。

さて、わざわざずいぶんと昔の話しを持ち出したのはここらあたりの事が書きたかったからなのだけれど、2011年も本当にいろんな事が起こった。また何も起こらなくて困るという事もあるだろう。話が大きくなり過ぎている事もたくさんあったと思う。2012年もきっと、話が大きくなり過ぎてよくわからない事がたくさん起こるだろう。

大きくなり過ぎた風船を抱えて「アンカー」になってしまう人もたくさんでるだろう。「アンカー」は辛い。「アンカー」も辛いが、「アンカーを支える人」も辛いだろう。あなたは、私は、2012年、無責任コラボレーションで「風船を大きく膨らませる人」と責任コラボレーションで「アンカーを支える人」どちらになりたいですか?ということ。

よくわからない大きな出来事というのは、社会でも身の回りでも起こる時は起こる。そういう「いざ」という時の為の思考訓練をしておくと、大好きなユッケが食べられなくなる、みたいな事態を避けることが出来て、ちょっぴり自由が持続したりちょっぴりハッピーになれるかもしれないね。


25
12月 11

何者かになれるもの


アメリカのハリウッドはすごいらしい。ぶったまげるような規模で映画が生み出され、全世界でぶったまげるような売上を叩き出して行く。かれこれ何十年も前から、それも毎年毎年、私たちをたくさん楽しませてくれる。アメリカが世界に誇る一大産業だろう。

ところ変わって日本でも、かれこれ20年以上前から私たちを楽しませてくれているものがある。テレビゲームだ。「テレビゲーム」が生み出されてきた背景には、それはものすごい努力があったのだろうと思う。

私は小さい頃からファイナルファンタジー・シリーズが大好きなのだが、50時間くらいかけて「映画のような世界を自分で体験していく」そのストーリー性に魅かれていた。ファイナルファンタジーには各タイトル毎に「テーマ」が設定されていると、勝手に解釈してプレイしていた。例えば7は「環境」、8は「愛」、9は「命」といった具合に。

期末テストの前日に新作が発売された日にはもう大変だった。忍耐力の無い私はテスト勉強そっちのけで新作ゲームを夜通しプレイしたものだ(笑)余談だが私が一番好きだったのは「9」ジダンの世界。(無意味にエンディングを貼ってみる。ネタバレ要注意!)

話しがそれてしまった。各タイトルごとに、いろいろと書きたい事はあるのだが長くなるのでこの辺にしておこうと思う。「映画のような世界を自分で体験していく」という意味で、アメリカのハリウッドに近いものの一つとして「テレビゲーム」があるのではないだろうか。日本にも、かくも深い物語を生み出すチカラがあるのだ。

しかも最近の作品を見てみると、「映像」としてのクオリティも物凄く高い。下記のトレーラーなど、わざとゲームっぽくしているのかもしれないが、まるで実写のようだ。

テレビゲームなのか、映画なのか、もはや境目はあまり無くて、それはただコンテンツが作られる「文法」が違うだけなのではないか。もちろん、これらが小説やマンガになったっていい。ただ映画や小説・マンガなど、「用意されたものを読み進めて行く」のとちょっとだけ違うのは、自分で動かして自分で進んで行くというところだろうか。そういえば、登場人物に「名前がつけられる」という機能もいつの間にか当たり前につくようになっていた。

登場人物に自分の好きな「名前がつけられる」。自分の名前をつけるもよし、ヒロインに自分の好きな相手の名前を付けるもよし。これって実はすごく大切な事なんじゃないかと感じた。

 映画  : 用意された物語を第三者的に楽しむ
 ゲーム : 用意された物語の主人公が自分

機能的にはほんの少しの違い。ただ、楽しむ方はもしかすると全然違う受け取り方がされるのかもしれない。たった少しの事がもしかするとびっくりするくらいの「没入感」を生むのかもしれない。

当たり前なのだろうけれど、どんな時代においても「何者にも成れない人がほとんど」である。しかし、例えば50時間程度のゲームの中だけでも「自分の名前が付いた主人公が大冒険し、何事かを成す。」何者かを追体験できる物語があらかじめ用意されている。

 ・ 何者にもなれないが、何者かの追体験ができる。

最近、「怪盗ロワイヤル」や「ドラゴンコレクション」など、テレビゲームではなく「ソーシャルゲーム」が着実に人気を伸ばしているらしい。これらが人気になる背景として、多少なりとこれが関係しているのかもしれないと感じた。

 映画  : すごく面白い物語を見る
 ゲーム : すごく面白い物語の主人公が自分

ソーシャルゲームというのは、こういっちゃなんだが「あらかじめ用意されている」物語はそんなになくて、どちらかと言うと、誰かに手伝ってもらったり、誰かに教えてもらったり、誰かと協力したりする、だけれど、自分一人でもやっていける。この柔軟性に面白さがあるのかもしれない。

 ・ ソーシャルゲームは「物語をつくるのも自分(たち)」

ということなんだろうか。ここまで委ねつつも、それでもハマるものを作る。それはそれでまた物凄い試行錯誤の連続なんだろうけれど、仮に「物語を作るのも自分(たち)」という事が当てはまるのであれば、これはもしかすると、

 ・ 何者かになれるもの、それがソーシャルゲーム。

という事になるのだろうか。だとすると、人気が高まるのもうなずける。いろんなコンテンツがあって、それぞれ特徴のある「文法」で描かれていてそれぞれに面白い。と同時に、すごく消化しきれない面白いコンテンツたちに満たされているのも事実としてあると思う。

今でも十分に面白いソーシャルゲームはいくつもあると思うのだけれど、何十年かけて育ってきた「映画産業」や「テレビゲーム産業」のように、どんどん成長してクオリティが高くなって行く未来を想像すると、なんだかワクワクする。なんたって、ソーシャルゲームはまだ生まれて3年くらいなんだ。

誰かが用意した物語でもなく、物語そのものを自分たちでつくりあげる。既に満たされているが何者にもなれない時代に、何者かになれるものを。そう考えると、なんだか今という時代のニーズを的確に捉えているのではないだろうか。


11
9月 11

いつだって、メディア環境の変化は「人」に起因する。


前に書いていた記事をスライドにしてみました。PDFはこちらからダウンロード出来ます。

参照)

急速にフラット化する世界
自分事化される世界が繋がりを生む


14
8月 11

急速にフラット化する世界


赤道直下の地域は相当暑いらしい。地球は、一番熱くなる赤道直下あたりを冷やすために「台風」を生み出して、少しでもその熱気が分散するようなシステムを働かせている。「熱気」というのは、地球でも、ビジネスでも、遊びにだってあるけれど、集中と分散を繰り返して行くんだろう。

「急速に」フラット化する世界、と書いたのは「アメリカのデフォルト(債務不履行)問題」の事を指して、その前後について書いてみる。

ここ最近の世界の関心事は、8月2日にアメリカがデフォルト(債務不履行)するのか、という事だった。結果的にそれは回避されたのだけれど、その回避の仕方を見ていると、「急速に」変わらざるを得ないのかもしれない。

アメリカがデフォルトを回避する為に取った施策は、「借金の上限を増やしましょう法案」を可決する事だった。その代わりに野党が要求したのが「財政改善(支出を減らしましょう)」という事。

借金の上限は増えた。しかし、これまで通りの借金を続けて行くと、1年〜遅くとも2年以内にまたデフォルトの危機が訪れる。というのは誰にでも分かる簡単な計算だった。そこで、「財政改善」というわけですね。

しかし「財政改善=支出削減」というのは何を意味するのか。リーマンショックに端を発した経済危機後、アメリカはどんどん国として支出をして、アメリカ経済を支えてきた。これを削減するのだから、当然景気は悪化する。支出削減と、景気悪化の悪循環のはじまり。そして次第に将棋で言うところの「詰み」の状態に近づいて行く。

世界は、「もしかしたら、アメリカがとんでもない奥の手を持っているかもしれない」と考えていたかもしれない。しかし、8月2日に出てきたデフォルト回避施策が上記であった。そして、その直後から強まる「世界同時株安」。(と、超円高)エコバブルでアメリカが持ち直す、というシナリオも考えられなくはないが、あと1年〜2年でそこまで持って行けるかは疑問も残る。

アメリカの没落が、目に見える形で始まった。今後考えられる最悪の事態は「ドルの大暴落」そして「ハイパーインフレ」。そんな今、日本はどうなっているだろう。

日本は、3.11の大地震と、大津波で大打撃を受けている。復興需要も考えられるが、それよりも、企業の動きが気になった。生産拠点を日本国内に集中させていると、何かが起こった際に製造出来なくなり、危機的状況に陥る。そこで、「海外に生産拠点を設ける」日本企業が増えている。

もしくは、「既に海外で生産されている商品をOEM提供」したりという事。これは震災とは関係ないかもしれないが、イオンは韓国で生産されたビールを国内でPBとして格安提供はじめる、という記事も最近出ていた。

要は、「日本企業は海外へ出て行き」、「海外製品を日本へ輸入する」という流れが出来始めているという事。これをシンプルに捉えると、雇用が減り、技術が漏洩する。という、これまた一昔前から問題視されている事が、より目に見える形で進んでいる。

中国はどうだろうか。既に世界の工場となった中国。今現在、中国が世界の工場である事は間違いない。しかし、ユニクロは既に生産拠点を「アフリカ」へシフトし始めている。ナイキはベトナムの生産拠点の方が中国よりも大きくなってきている。

つい、ここ10年、いや、5年以内の話しだ。中国が世界の工場になる、と言っていたのは。まさしく、「急速に」世界は動いている感じがする。2010年代は中国の時代かもしれないが、2020年代はきっと違う国の時代になるのだろう。

「国」の話しは一旦置いておいて、日本のとある産業について書いてみたいと思う。ゲーム業界だ。先日、任天堂が「ニンテンドー 3DS」を1万円も大幅に値下げするというニュースが出た。コナミの今年4−6月の家庭用ゲーム機の売上は約77億円だったらしいが、ソーシャルゲーム向けの売上は約78億円で、逆転したらしい。

一方で、非常に高い収益性で超急激な成長を遂げているGREEやDeNA(mobage)は国内でだいたい2,500万人〜3,000万人の登録ユーザーを抱え、積極的に世界に打って出ている。GREEはアメリカのOpenFeintを買収している為、世界のユーザーは約1億3千万人の届こうとしている。DeNA(mobage)は先日米AT&Tとの業務提携を発表していた。

家庭用ゲーム機というのは、参入するにも大きなハードルがあった。ハリウッド並みのコストを使って制作したタイトルでも大コケする可能性もある。遊ぶユーザーとしても、数千円するソフトを購入したけれど、思ったほどおもしろくてガッカリ。なんて事もよくある経験だろう。

そこで登場したのがソーシャルゲームというものだ。開発コストも、開発期間も短くてすむ。人気が出れば、どんどん機能追加して良いものに仕上げて行く事ができる。遊ぶユーザーとしても、最初は無料なのでとっつきやすい。面白いと思えば課金すればもっと自由度高く遊べる。

こういった点などで、ソーシャルゲームは急速に成長し、それがゆえに、急速に競争が激化していった。既にソーシャルゲームはレッドオーシャンである、という言葉まで出ているほどだ。これもまた、「急速に」変化している。

「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」などの超人気タイトルを持つスクエニはどうだろうか。強力な コンテンツを持つと強い。ストロングスタイルよろしくだが、しかしどうだろう。やたらと多い「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」のリメイク版がズラリと並び、ビックタイトルはと言えば、その続編だ。

「過去の資産」に支えられている、と第三者が適当に言ってみればその通りなのかもしれない。「過去の資産」に支えられている業界(企業)か、、それは他にもありそうだ。

たまに、「テレビはこれからどうなんるですか?」という質問を受ける事がある。答えから書くと、「相対的に影響力はだんだん低下していくだろう」という返事をしている。

一つは、先に記載したような、「日本企業が海外へ出て」、「海外製品が日本で売られる」というところもあるだろう。さらに少子高齢化で日本の市場が大きく変化している。スポンサーが付きにくくなる、もしくは、テレビCMの金額が下がれば下がるほど、クオリティの高い番組提供が難しくなる、という事もあるだろう。

一方で、テレビの視聴者からすれば、先に記載したようなゲームだったり、仕事をしたり、映画を見たり旅行したり、飲みに出かけたり、YouTubeで動画を見たりブログを読んだり。全ての人間には等しく1日24時間しか時間が無いなかで、面白い事は世の中にありあふれているからだ。相対的にテレビを見る時間が短くなる要素は多分にある。

逆に、時間が多いシニア層はよりテレビを見る時間が長くなっていく可能性はある。その傾向は、既にあるようだが。だとすると、テレビがいづれセグメントメディアになっていく、という事もあるかもしれない。

また既に、リーマンショック以降の広告差し控えが一番分かりやすいきっかけかもしれないが、一つの番組にかけられる予算が減少している、というのはよく聞く話しだ。その結果かどうかは知らないが、再放送番組が増え、お笑い芸人がネタを消費して行くバラエティ番組も増えている。これもまた、「過去の資産」に支えられていると言えなくもない。

ゲーム業界を変えた、ソーシャルゲーム業界だが、テレビ業界を変えるのが、ソーシャルテレビかどうかは知る由もないが、ニコニコ動画やUstreamなどのライブかつ、横のつながりの強いものもだんだんと熱を帯びている。そうなりえる可能性がゼロではないだろう。

ちなみに、ここまで書いてきたが、全ては自分の記憶によるものなので、正確な情報はちゃんと調べた方が良いかもしれない。すごく浅い部分しか切り取って書いていないが、広く捉えてみるというチャレンジをしてみた。

急速に、世界はフラット化している。

あまりにも熱い場所が出来ると、それを冷やす作用が起きて、また別の場所が熱を帯びる。それは遠い昔から繰り返されてきた「歴史」なのかもしれないけれど、そのスピードが異常に早まってきている、というのが現代社会の捉え方の一つなのかもしれない。

そんな現代社会を生き抜くヒントは、一昔前の「村社会」にあると考えている。しかも「現代版村社会」とでも言うもの。キーワードは「シェア」にある。難しく、先行き不透明、重苦しさも感じる空気感の中をハッピーに生き抜く術とでも言うかもしれない。

例えば、日本人の平均給料はバブル崩壊後「ずーっと下がり続けている」んだけれど、その中でも、今、もしくは今以上の生活をハッピーに送って行く方法、とでも書いてみる。

とてもシンプルな話しだ。例えば「衣食住」で、自分が「シェア」しても良いというものを考えてみるといい。「服」を誰かとシェアしても良いというお洒落さんが集う「服シェア型シェアハウス」。「食」の部分だけを誰かとシェア、楽しい食卓に変える「食シェア型シェアハウス」。「住」の例えば、風呂とかトイレだとかだけを誰かとシェアしてみる「シェアハウス」だったり。

「共同住宅」というとなんだかアレルギーを持つ人もいるかもしれない。けれど、一番分かりやすいのは、近所に住む人たちで楽しい食卓を囲むようにしませんか。と、少しアプローチを変えてみると、すごくお洒落で、かつローコスト(エコでもある)になる。

こういった、テーマ別の「住」というのは、これからのトレンドにもなると思うし、「シェア」する為には、物理的な距離は近い方がいい。ここまで書いてみると思い出すのが「サザエさん」だったり「ちびまる子ちゃん」の世界だ。

「サザエさん」だろうと、昔の家族構成だろと、思い返してみると、近所付き合いや家族付き合い、親戚付き合い、というものが、現代風に蘇るだけ。

家族と遠く離れて暮らす人も多いだろう。それを、いろんなテーマで「再編集」し、「再結集」、「シェア」出来る部分を見出して行く。軸となるのは、「共感」できる部分だったりするだろう。今よりもずっと低いコストで、今よりもずっとハッピーな暮らしが出来る。

フラット化だろうと、なんだろうと、変化は怖いかもしれない。でも、その「変化」を違った角度から見てみると、すごくハッピーな明日が待ってるかもね。


24
7月 11

ソーシャルメディアがマーケティングを変えるわけではない。


いい機会というか、いいお題がありましたので久しぶりにブログ書いてみます。

ソーシャルメディアがマーケティングを変えるわけではないし、ソーシャルメディアがコミュニケーションを変えるわけでもない。もちろん、ソーシャルメディアが何かをもたらすわけでもない。

いづれも「ソーシャルメディア」が主語になっていますが、「ソーシャルメディア」はあくまでも情報伝達手段ですので「主語」にならない、という気がしております。その「情報伝達手段」を「活用している」のは「」なのか、「なぜ」なのか。この「背景」に、何やらヒントがありそうな気がしております。

では、何が「マーケティング」を変えるのか。その過程で考えられる事は何か。ちょっと“違った”角度からアプローチしてみたいと思います。

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考察 1 : マズローの5大欲求から考えてみる。

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先日、いつも興味深く読ませて頂いているこのメルマガで紹介されていた内容を引き合いに出して考えてみます。

【マズローの5大欲求】

1.生理的欲求(physiological need)
2.安全の欲求(safety need)
3.所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4.承認の欲求(esteem)
5.自己実現の欲求(self actualization)

この3番目、「所属の欲求」について触れられていて、その内容をシンプルにまとめてみると、

明治維新後、日清戦争、日ロ戦争、第1次世界大戦を連勝し、「世界5大国」の一国となっていた。しかも、国際連盟の「常任理事国」だった。疑う必要も無く、所属の欲求は「日本という国」によって満たされていた。しかし、ご存知の通り第二次世界大戦で敗北し、日本人の所属の欲求は満たされなくなった。その代わりに出てきたのが「高度経済成長」と「バブル経済」に支えられた「企業」だったのです。つまり、バブルが崩壊するまでに所属の欲求を満たしていたのは「企業」だった。そして現在、忠誠を誓っていたはずの企業はリストラの嵐、不景気で給料は下がり続けている。さらに政治は混乱し政治家も信用出来ない・・・。

このメルマガでは、橋下大阪府知事など地方志士たちの出現。という締めくくり方になっていますが、私は少し違う考察をしてみます。

国も企業も信用出来ない。。となれば、所属の欲求を満たすのは何なのか(誰なのか)。国に何かをしてもらう、企業に何かをしてもらう。そういった考え方が壊れた時、もうどこか遠くで起きている出来事に左右されるのではなく、「人」はより身近な「人」との繋がりを、より大切にしていくんじゃないか。家族も友達も、先輩や後輩も、自分の今近くにいる人たちとの時間や関係をより大切に。

以前、アニメ「サマーウォーズ」を観て、細田監督の講義を聞きに行った時に、「自分事化される世界が繋がりを生む」という記事を書いたのですが、これと全く同じ考え方があてはまります。

上記に記載しているような、【良く分からない「何か」が、自分の事であると、気づいていく。】という状態から【世界の良く分からない「大変な事」が、自分事化され、繋がりが生まれる。】ことを経て、【自分事化される世界が繋がりを生む。それこそが、ボクらの武器。】と気づいていく。

まとめると、自分事化される世界。それが繋がりを生み、ボクらの武器となる。という事が、意識/無意識関係なく浸透していっているんだと考えています。

これって、人と人との繋がり「コミュニティ」の復活、一昔前で言うところの「村社会」を、現代風にアレンジ加えて形成しているようなことのようにも思えます。

(少し話しはずれますが、だから私は Livlis のようなサービスに大きな可能性を感じています。どっぷり浸かりたいです。余談ですが、こういった思考回路からLivlisについて考えた時、川崎さんに「Livlisに預ける」という概念についてお話しさせて頂きました。)

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考察 2 : デフレ経済から考えてみる。

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世界は今、8月にアメリカがデフォルト(債務不履行)になるのか否か、という話題でもちきりです。もしくは、ギリシアかイタリア(=EU)か。

日本経済について少し振り返ってみます。戦後、賃金が安かった日本は「安かろう悪かろう」で「世界の工場」として高度経済成長してきた日本、その後、円の切り上げと共にバブルがはじまり、「安くて質が高い」Made in Japanは世界で大人気になりました。「ジャパン アズ ナンバーワン」とまで言われた時代もありました。

今は「中国」が世界の工場です。しかしそれも束の間、既に「ベトナム」(既にシューズメーカーのNIKEはベトナムへ工場のシフトを終えているみたいですね)や「アフリカ」へのシフトが始まっています。(そういえば、1年前くらいか、NHKで「アフリカンドリーム」という特番やってました)

グローバル化が進み、「世界が狭くなった」結果、このように「シフト」する為の時間が短縮されています。日本は「デフレ」状態が続いていますが、これがいつまで続くか?もっと議論が必要な議題だとは思いますが、乱暴に書いてみますと「世界がフラットになるまで」デフレであり続ける、という事も考えられます。

デフレ経済が続き、給料が減り続けるとしたら、「人々はどのようにするのか?」というのがこの考察のポイントでございます。より「お得な」事は何か、より「効率的に」という風に考えていくのではないでしょうか。

少し走り書きしました。このような「背景」から考えてみた時、例えば「バブル」の時に「価格.com」があったとして、流行っていたでしょうか?高度経済成長期に「ソーシャルメディア」があったとして流行っていたでしょうか?ソーシャルメディア、いや、インターネットとは、「ただの通信手段」に過ぎません。それを活用するのは「」ですね。

(トリガー増える→変化増える→ギャップ増える→チャンス or リスク増える。日本の今後3年間については、今年の新年早々の「朝生」を見ながら書いたこの記事に書いてますので宜しければ。)

(先日、リーマンショック後を描いた映画「ウォール・ストリート」を見ました。「何か大きな変化が起こっても、誰かが取って変わるだけ」。アメリカがデフォルトになるか否かの今、改めて興味深い映画になっていました。)

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二つの視点から考察を続けてきました。ここでタイトルの「ソーシャルメディアがマーケティングを変えるわけではない。」に戻ると、もう答えは見えているかもしれませんが、マーケティングが変わるのは「人」が変わるから。これを大きなくくりで言い直すと「時代」が変わっているから、必然的に「マーケティング」も変わっている。

微妙なニュアンスで、かつ、一番難しいポイントなのですが、「ソーシャルメディア」がいろんなものと混同して語られるのには訳があると思っています。

これまで重ねて来た「考察」を元にすると、この一言に集約されると思います。「人(個人)」にフォーカスが当たる時代がやってきた。俯瞰してみると、「多様化する世界」とも言うかもしれません。この大きなくくりでの「時代の変化」という「背景」もありつつ、

目の前では、まだ日本では人口比2割〜3割とはいえ「ソーシャルメディア」(Facebookは世界で7.5億人が使っていたり)に「人」が集まっています。

「時代背景」という大きなくくり無しに、「広義でのマーケティング(プロモーションだけでなく製品開発なども含む)」と、「利用者が爆発的に増えているソーシャルメディア」を同じ文脈で語ってしまっている事もあるでしょう。

「マーケティングが変わっている」のも、「ソーシャルメディアが普及する」のも、結果論であって、その「要因」は別なところ「時代背景」にある。

さらに、「ソーシャルメディア」というのは、「メディア」と言っても、「人」そのものである。がゆえに、「時代背景」を受けて変化している「人」の行動(マーケティングの変化)と「ソーシャルメディア」が紐つけられてしまう、という事もあるでしょう。

「ソーシャルメディア」上では、やろうと思えば「人(人々)とダイレクトに会話」も出来るし、「人(人々)の会話に耳を傾ける」事も出来ます。それも、何千、何万という単位で。

つまりは、ソーシャルメディアに寄り添う事を本気で考えるという事は、「時代背景」によって変化している「人」と、「ダイレクト」に向き合うという事になり、「企業姿勢や発想の始点」を「時代背景」も踏まえた「人」を基軸としたものに総入れ替えしなければならない。

ソーシャルメディアがマーケティングを変える事はないけれど、「ソーシャルメディア=人」と本気で寄り添う(向き合う)という事は、これまでのマーケティングの在り方を変えなければならないのかもしれない。そう考えると、この事は「最上位概念」になるとも言えるかもしれません。(最上位概念、という事についてはこの記事に書いてますのでご参考まで)

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フラット化する世界。

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ここまできてなんと、「3700文字」。そろそろまとめに入りたいと思います。

私は今後起こりうる大切な変化のキーは、考察 1 に記載しましたが「コミュニティ」の存在だと考えています。経済であろうと、文化の交流だろうと、交通手段やIT技術の発達によってますます狭くなって行く世界(地球)。

これは少し懐かしいかもしれませんが、「フラット化する世界」という事なんだと。考察 1 でも考察 2 でも、全く違った視点での考察 3 でも良いのですが、いろんな切り口・視点で「世界がフラット化」する時代。フラットになればなるほど、「人」にスポットライトが当たる。その時にキーとなるのが「繋がり」を元に強力なパワーを発揮する「コミュニティ」の存在ではないでしょうか。