03
1月 12

無責任コラボレーション


宇宙は果てしなく広大なものらしい。どれくらいかというと、光の速さで100万年かかっても1周出来ないほどだ。もはや広大すぎて「宇宙」という言葉自体が抽象的に感じられる。もしかすると宇宙というのは「星」かもしれないし「地球」というのは宇宙という「星」に存在する「大陸」なのかもしれない。要は、大きすぎてよくわからないのだ。

そうか、モノでもコトでも、大きくなりすぎるとよくわからなくなってしまう事もあるだろう。

もう半年かもう少し前くらいに「ユッケを食べて食中毒になり男児が死亡する」という事件が起こった。もちろん、その事について今更何かを言いたいわけではない。結果として「私たちはユッケが食べられなくなった」という事実がなぜ生まれたのか、それを考えてみたいと思う。

最初、事件が起こった。警察もいろいろと調べた。それをテレビが連日報道した。人々は高い関心を持ってこの事件を見守った。法整備や規制が無い事に気づいた。行政は厳しい規制を設けた。そうしてユッケは食べられなくなった。この中でいくと、コトが大きくなったのは言うまでもなくテレビの影響で、またテレビが連日報道するという事は視聴率がそれを裏付けていたんだろう。つまりたくさんの人がよく見ていたんだ。

 テレビ局 : 視聴率が取れるのであらゆる角度から連日報道
 視聴者  : 連日暴かれる新情報に強い関心

こういう事象はしばしば起こる。テレビは「視聴率=視聴者の支持」があるから連日報道するし、視聴者は興味があり報道されているからただ「見た」だけなんだ。このコラボレーションによりコトはどんどん大きくなっていった。ひとしきり大きくなった頃、一つの出口が見つかる。「不十分な法整備」だ。大きくなり過ぎた風船が飛んで行く先が見つかったんだね。

この一連のコトに対して「アンカー」となってしまった行政は、この大きな風船をどうにかしなければならない。そう、厳しい法整備をすることだ。ちなみに私はユッケが大好きだったのだけれど、一つ楽しみが減ってちょっと寂しい。同じように感じる人が多いとするならば、この結果はいったい誰にとって嬉しい事だったんだろうか。

テレビは「報道」と「視聴率」という両方の目的が達成されるからどんどん取り上げて行ったんだろうし、それをよしとした視聴者もまた視聴率として返して行った。もちろん、誰が悪いなんてことはない。ただ、風船を膨らまし続けるに十分な程の「無責任なコラボレーション」により、巨大な風船は出来上がった。これを「世論」とでもいうのかな。

この大きな風船を受け取る「アンカー」は、並大抵の精神力じゃ受けきれないだろう。なんてったって、相手は無責任に言っているだけなのだから、言われるがままだ。これには冷静にコトを分析し的を得た意見を言う、「アンカー」を強く支え続ける「責任コラボレーション」が必要だろうと、そう思ったんだ。

さて、わざわざずいぶんと昔の話しを持ち出したのはここらあたりの事が書きたかったからなのだけれど、2011年も本当にいろんな事が起こった。また何も起こらなくて困るという事もあるだろう。話が大きくなり過ぎている事もたくさんあったと思う。2012年もきっと、話が大きくなり過ぎてよくわからない事がたくさん起こるだろう。

大きくなり過ぎた風船を抱えて「アンカー」になってしまう人もたくさんでるだろう。「アンカー」は辛い。「アンカー」も辛いが、「アンカーを支える人」も辛いだろう。あなたは、私は、2012年、無責任コラボレーションで「風船を大きく膨らませる人」と責任コラボレーションで「アンカーを支える人」どちらになりたいですか?ということ。

よくわからない大きな出来事というのは、社会でも身の回りでも起こる時は起こる。そういう「いざ」という時の為の思考訓練をしておくと、大好きなユッケが食べられなくなる、みたいな事態を避けることが出来て、ちょっぴり自由が持続したりちょっぴりハッピーになれるかもしれないね。


01
1月 12

謹賀新年:食べ過ぎずに行こう2012年「辰」


ドラゴンボールZ バーストリミット3

明けまして、おめでとうございます。

元旦という日は年に一度、だからってわけじゃないけれど。

2012年になったということは、2011年はもう二度と訪れないということ。

それはちょっぴりさみしいことかもしれないし、今年が終われば2012年はもうこない。

元旦から震度4の地震がおこり、「忘れるな」と言われているような気もした。

でも、気楽に行こう。

そうそう、昨日、大晦日に書いたエントリで2011年の目標「好奇心と、出会おう。」は全く達成出来なかったって書いたけれど、実は大晦日の土壇場で見つけたものがあるんだ。構想、というよりも未来像は頭の中に出来上がってる。そうだな、、10年はかかる。

2012年の目標は、立てない。

そういえばジャガイモの芽などに含まれる「ソラニン」は、食べ過ぎると体に毒らしい。だから、「2012年は「食べ過ぎずに行こう。」という方針にする。

もちろん、最近太ったということもあるけれど、別に食べ物だけじゃなくって、いろんなものがあるさ。

それでは、皆様と私にとって、ハッピーな年になりますよーに☆

願い事は、きっとシェンロンが叶えてくれる。

本年も、何卒、宜しくお願い申し上げます。


31
12月 11

“普通”である状態が一番多いのが人生。2011年を振り返る。


たくさん2011年の振り返り記事を読んでいて、書くつもりは無かったんだけれどやっぱり書こうと思い立った大晦日。もちろん今年もたくさんの事があった。ぼーっとその事を思い返しながら考えていたら、社会人1年目の頃にお世話になった先輩の言葉を思い出したんだ。

 「人生で一番多いのは、良い時でも悪い時でもなく、“普通”な時なんだ。」

確かに、忙しい時もそうでない時も、仕事をしている時も遊んでいる時も、小さなドラマの積み重ねで成り立っている。記憶に深く残るのは何か大変な事を乗り越えたりといった感情が大きく振れる時だ。しかしそれらを総じて考えると、やっぱり“普通”な時が一番多いんだよね。

ただ厄介なのは、感情が大きく揺れ動く出来事があるとアドレナリンが出まくるからか強い刺激を後まで引きずるって事なのかな。一番大きな刺激はやっぱり、2010年末のあのプレゼン、完成と同時にふと朝日を見た時のあまりの神々しさに実は少し泣いちゃった事とか。その後の成功体験もあいまって、ものたりなさも感じた2011年。

2011年元旦に書いた今年の豊富を改めて読み返してみると良く分かる。文章がめっちゃ固いやないか(苦笑)「謹賀新年:好奇心と、出会おう2011。」しかしこの「好奇心と、出会おう」というフレーズは今年それはもう目に穴が空く程反芻した言葉だし、ソニーのこのCMも何回見た事かという感じだったけれど。

2011年の前半は、その前2010年末からの、とにかく目の前を飛んでいるものはどんなものでも有り難く頂戴する、という自分の領域以外の事も含めて手を出しまくっていた。その中でも貴重な経験を積ませた頂いて事をまるめて書くと「会長プレ」に尽きる。この経験は、一生ものになるのは間違いない。

さらに、2011年を振り返る全ての人が口にするであろう、3.11。私は当時もその後もずっと東京に居たけれど、これまでの人生の中で全く経験も想像すらしたことの無い事態に、計画停電・節電もあってリアルにも暗い日々。不謹慎なのかそれが現実なのかは分からない。でも、まだ事態も把握出来ていない震災当日は帰れないしみんなで飲み、非常にタイトなスケジュールで進めていたキャンペーンで稼働していたプロダクションを独断で止めて帰宅してもらい、コンビニから食料や飲料が一切無くなっても外食すればいいし、余震が続く中、世の中の騒ぎと自分は乖離があってどこか楽天的だった。なぜならそれはここが東京だから、だろうか。

2011年の後半は営業に異動し、(現在進行形なので中略します)今に至る。そう、2011年の元旦に立てた目標は、何一つ実現できちゃいない。というか、そもそも2011年中に実現出来る目標ではなかったのだ。そんな事も分からずに立てた目標。この大晦日の土壇場で社会人1年目に教わったはずの言葉の意味がようやく理解出来た。その事に気づいたんだ。また先日の忘年会の時に、尊敬する先輩がくれた言葉がある。

 「お前はたとえ年収2,000万円もらっても満足出来ないタイプの人間だから、“次”は10年スパンで考えて行け。1年で1.1倍に、10年で2倍になるような事を考えろ。お前は突発的に動くからしっかり地に足を付けて、そこが心配なんだ。」

その心は、たぶんまだ消化しきれていない。けれど、大晦日の今日にいろいろと思い返していて、また考えていて、その手がかりにたどり着けた気がして、ようやく2011年の振り返りが書けるようになった。これはまた明日書くと思うけれど、まさしく10年がかりの、最初の一歩を。ありがとうございました、2011年。そしてもうすぐ、2012年。

本年、本当にお世話になりました。
来年も、どうぞ宜しくお願い申し上げます。


25
12月 11

何者かになれるもの


アメリカのハリウッドはすごいらしい。ぶったまげるような規模で映画が生み出され、全世界でぶったまげるような売上を叩き出して行く。かれこれ何十年も前から、それも毎年毎年、私たちをたくさん楽しませてくれる。アメリカが世界に誇る一大産業だろう。

ところ変わって日本でも、かれこれ20年以上前から私たちを楽しませてくれているものがある。テレビゲームだ。「テレビゲーム」が生み出されてきた背景には、それはものすごい努力があったのだろうと思う。

私は小さい頃からファイナルファンタジー・シリーズが大好きなのだが、50時間くらいかけて「映画のような世界を自分で体験していく」そのストーリー性に魅かれていた。ファイナルファンタジーには各タイトル毎に「テーマ」が設定されていると、勝手に解釈してプレイしていた。例えば7は「環境」、8は「愛」、9は「命」といった具合に。

期末テストの前日に新作が発売された日にはもう大変だった。忍耐力の無い私はテスト勉強そっちのけで新作ゲームを夜通しプレイしたものだ(笑)余談だが私が一番好きだったのは「9」ジダンの世界。(無意味にエンディングを貼ってみる。ネタバレ要注意!)

話しがそれてしまった。各タイトルごとに、いろいろと書きたい事はあるのだが長くなるのでこの辺にしておこうと思う。「映画のような世界を自分で体験していく」という意味で、アメリカのハリウッドに近いものの一つとして「テレビゲーム」があるのではないだろうか。日本にも、かくも深い物語を生み出すチカラがあるのだ。

しかも最近の作品を見てみると、「映像」としてのクオリティも物凄く高い。下記のトレーラーなど、わざとゲームっぽくしているのかもしれないが、まるで実写のようだ。

テレビゲームなのか、映画なのか、もはや境目はあまり無くて、それはただコンテンツが作られる「文法」が違うだけなのではないか。もちろん、これらが小説やマンガになったっていい。ただ映画や小説・マンガなど、「用意されたものを読み進めて行く」のとちょっとだけ違うのは、自分で動かして自分で進んで行くというところだろうか。そういえば、登場人物に「名前がつけられる」という機能もいつの間にか当たり前につくようになっていた。

登場人物に自分の好きな「名前がつけられる」。自分の名前をつけるもよし、ヒロインに自分の好きな相手の名前を付けるもよし。これって実はすごく大切な事なんじゃないかと感じた。

 映画  : 用意された物語を第三者的に楽しむ
 ゲーム : 用意された物語の主人公が自分

機能的にはほんの少しの違い。ただ、楽しむ方はもしかすると全然違う受け取り方がされるのかもしれない。たった少しの事がもしかするとびっくりするくらいの「没入感」を生むのかもしれない。

当たり前なのだろうけれど、どんな時代においても「何者にも成れない人がほとんど」である。しかし、例えば50時間程度のゲームの中だけでも「自分の名前が付いた主人公が大冒険し、何事かを成す。」何者かを追体験できる物語があらかじめ用意されている。

 ・ 何者にもなれないが、何者かの追体験ができる。

最近、「怪盗ロワイヤル」や「ドラゴンコレクション」など、テレビゲームではなく「ソーシャルゲーム」が着実に人気を伸ばしているらしい。これらが人気になる背景として、多少なりとこれが関係しているのかもしれないと感じた。

 映画  : すごく面白い物語を見る
 ゲーム : すごく面白い物語の主人公が自分

ソーシャルゲームというのは、こういっちゃなんだが「あらかじめ用意されている」物語はそんなになくて、どちらかと言うと、誰かに手伝ってもらったり、誰かに教えてもらったり、誰かと協力したりする、だけれど、自分一人でもやっていける。この柔軟性に面白さがあるのかもしれない。

 ・ ソーシャルゲームは「物語をつくるのも自分(たち)」

ということなんだろうか。ここまで委ねつつも、それでもハマるものを作る。それはそれでまた物凄い試行錯誤の連続なんだろうけれど、仮に「物語を作るのも自分(たち)」という事が当てはまるのであれば、これはもしかすると、

 ・ 何者かになれるもの、それがソーシャルゲーム。

という事になるのだろうか。だとすると、人気が高まるのもうなずける。いろんなコンテンツがあって、それぞれ特徴のある「文法」で描かれていてそれぞれに面白い。と同時に、すごく消化しきれない面白いコンテンツたちに満たされているのも事実としてあると思う。

今でも十分に面白いソーシャルゲームはいくつもあると思うのだけれど、何十年かけて育ってきた「映画産業」や「テレビゲーム産業」のように、どんどん成長してクオリティが高くなって行く未来を想像すると、なんだかワクワクする。なんたって、ソーシャルゲームはまだ生まれて3年くらいなんだ。

誰かが用意した物語でもなく、物語そのものを自分たちでつくりあげる。既に満たされているが何者にもなれない時代に、何者かになれるものを。そう考えると、なんだか今という時代のニーズを的確に捉えているのではないだろうか。


10
12月 11

自分にとっての「日常」は、誰かにとっての「非日常」なのかもしれない。


ちょっと前に「Life in a day – 地球上のある1日の物語」を観た。世界中の人々が2010 年 7 月 24 日に過ごした一日をそれぞれ撮影し、YouTube に動画を投稿。投稿された 8 万本の動画は、4,500 時間を超え、ケヴィン・マクドナルド監督とその編集チームによって編集されたものだ。

先日発表されていたが、地球上には70億人の人間が暮らしているらしい。70億人分の1日=24時間を足し上げると、なんと1,680億時間にもなる。この膨大な「時」から考えると、4,500時間というのは、まだまだ少ないのかもしれない。

しかしこの4,500時間から編集されて出来た90分のムービーは大変貴重なものに思えた。

ベッドの中から連発される「グッモーニン」に始まり、髭を剃る若者、やけに片付いていない部屋を歩き回る男が妻に線香をあげている。たくさんのパンたちがチンと音を上げて焼き上がる。たくさんの「朝」がそこにはあった。荒野で火を焚いて作る朝ご飯、ヤギの乳搾り、普段私たちがテレビでしか見ないような「朝」もそこにはたくさんあった。

昼。ハンバーガーをもぐもぐとほうばりながらテコテコ歩く中年の男。歌を歌いながら小麦を叩く女たち、水牛を使って農作業する男たち。生まれてくる子豚、食用牛の頭を銃で打ち抜き首を切り落とす様、若い女の人が拳銃を手に取ってなにやら話している。ひざまずいて結婚指輪を差し出す男。書き出したらきりがないのでこのあたりでやめておく。

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自分にとって、違う世界に生きる人々の暮らしを見るのはとても興味深く楽しいものだった。これは編集されているものを観ているからなのかもしれないし、もしかすると編集されていなくても楽しいものかもしれない。

全く知らない、誰かの日常だ。言葉だってさっぱり分からない。はて、とても興味深いと感じたのはなんでだろう。自分にとっての繰り返す日々とは異なる、誰かの繰り返している日々は、すなわち、自分にとっての非日常だ。人は、自分とは異なる何かに興味を持つのだろう。

似たような事を繰り返す人々の集合体が、すなわち「国」なのかもしれないし、「文化」なのかもしれないが、そういった似た世界とは非なる世界が、この地球上には無数にあるという事をまざまざと見せつけてくれるのが本作だった。

自分にとっての「日常」は、誰かにとっての「非日常」なのかもしれない。そしてそれは、大変興味深いものになる可能性を秘めている。

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動いている画(動画)だから伝わる事もたくさんあるだろう。泣き声や叫び、息づかいや生活音もある。生々しい。そうか、生々しいのかもしれない。こういった「生々しさ」をあるテーマを持って集めてみると、すごく興味深いものができがるかもしれない。

例えば、国別/地域別に集めてランダムに見せるのもいいだろう。「朝」「昼」「夜」という情報を動画に持たせて、同じ日でもいいし全く異なる日でもいいのだけれど、たくさんの「日常」を60分くらいに自動編集して「ある1日」を作り上げるサービスがあっても面白そうだ。

日常と、非日常の世界の物語。他にもたくさん応用できそうなテーマなので、年末年始にでも考えてみるのはいかがだろうか。